よりみちねこのドラマカデミアへようこそ!

「正義のセ」日本テレビ
主演/吉高由里子


よりみちねこの評価は高い。

「花咲舞が黙ってない」の二番煎じだと評されていたり、
実家の設定や恋人との別れなども古い、と言う評論家もいたが、
私はむしろ新しい…は言い過ぎだが、決して古い、使い古しのテーマや描き方だとは思わなかった。
恋人のことで言えば、仕事をする女性はやっぱりこうなる的な古い表現では決してなかった。
互いに尊重しあった結果だと、私は感じた。元彼・優希(大野拓朗)が、下にも書く第9話での冤罪騒動のときには、心配して会いにきてくれたことからも分かる。

日本テレビでは、正義感の強い女性を描く社会派ドラマは確かに多い。
「花咲…」をはじめ、かつては「ダンダリン 労働基準監督官」「曲げられない女」などもあった。

とくに、いわゆる「正義」なるものが捻じ曲げられて「嘘」がまかり通っている昨今、
忘れてはいけない人間の感覚であるゆえに、定期的に物語ることは、大きく言えば地球の摂理にかなっている。

「花咲…」は、よりみち的には「水戸黄門」臭が肌にあわず、しっかり視聴したことがない。
「正義のセ」は、「正義」というものの在処を検事自身もときに迷いながら探っていくところが、日本人が教育されていないと言われている「考える力」の使い方を適切に表現しているように思った。

いつも何かが、誰かが、どちらかが一方的に正しいわけではない。
しかし、裁かれる人はそこにいる。
そして人はときに嘘をつく。その背景がいかなるものであるにせよ、嘘は真実を隠す。

裁く立場である検事は、その真ん中にいる。

第9話では、痴漢冤罪を生み出してしまった凜々子(吉高)。ネットで叩かれ、マスコミに追われる。
しかし実は、冤罪ではなかったことが判明。
凜々子は真実を追求する検察捜査を開始。
その途中、凜々子は悩む。はたしてこれは、被害者のためにやっているのか、自分の汚名返上のためにやっているのか、と。
相棒の事務官・相原(安田顕)は、検事は自分が分かってない、と言う。検事は、自分のために仕事をしたことはない、と言い切る。

何かを成功させようとするとき、誰かを助けようとするとき、
それは、何のためか、誰のためか、という問題は白黒つけられるものではない。
何をする場合にも、全く自分のためではない、ということなどあり得ないだろう。
自己犠牲だって、自己犠牲というものに尊い価値観がついているからするのかもしれない。
もちろん、このボランティアをしておけば就職に有利だ的な行動原理は、利己主義に分類してもいいと思う。

凜々子の場合は、検事という仕事を通して、自身の「生きがい」を感じているのだと思う。
そして、そのパワーが同時に「人助け」になっているということではないか。
やりたいこととやっていることが一致しているという理想的な姿のように見える。

私が、主人公・凜々子の描かれ方に共感するのは、
凜々子が物理的、表層的に起訴すべきかそうでないのかを悩むだけではなく、
加害者と被害者の背景に思いを致し、立場に悩み、検事である自分自身に悩む、
という極めて面倒くさい誠実さだ。

「正義」というのは、ああでもないこうでもないと悩んだ結果、なのではないか、
と思う。

原作は阿川佐和子。
このような小説を書く人なんだ、といささか驚いた。

シーズン2を希望する。