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「半分、青い。」NHK朝の連続テレビ小説
主演/永野芽郁


11週では、創作に関する興味深い視点がいくつかあった。

①律(佐藤健)と別れたすずめ(永野)。
悲しくてたまらない。
それを「描け」と迫る秋風先生(豊川悦司)。
「泣いてないで、いや泣いてもいいから描け。
漫画にしてみろ。物語にしてみろ。楽になる。救われるぞ。
創作は、物語をつくることは、自身を救うんだ。私はそう信じてる。
物語には人を癒す力があるんだ」

これは、10週でも書いたが、書く、描く、物語る、ということの癒し効果。
芸術家だけではない。
そして、物語らずにはいられない大きな出来事が、芸術家を生むのかもしれない。

②秋風の漫画教室「秋風塾」。
デビューを目指して描き続ける3人の弟子たち。
150回描きなおしても先生のOKが出ない。
何度も描きなおしているうちにわけがわからなくなる。
作品は、いじくりまわしているうちに、おかしなことになる。
そのときは考えて考えて、一番いいところに落ち着いたと思っても、
後から見ると、なんじゃこれ、ということはよくある。
翻訳本でよく見かける。
あ、これ、ひねくり回しているうちに、こんなことになったんだなきっと、という文に出会うことしばしば。書いている側は、全体が分かっているので上手に表現できていると思っているのだろうが、読者にしてみると、「?」ということもあるし、主語や助詞がへんてこなこともある。最近も見た。
物語の場合はなおさら、ストーリーやシーンがぐしゃぐしゃになるかも。
すずめは、2年後、150回以上描きなおした作品をやめて、別の作品をガーベラ大賞に応募することにする。
これはよかったと思う。いじくりまわした作品は、いったん寝かせたほうがいい。

③ある日ずすめは秋風先生に言う。
「先生はおかしいです。みんなが先生と同じとは思わないでください。
私たちは、漫画家である前に人間です。
先生はロボットです。漫画を描くためのロボット。私は人間です。漫画を描くためにわざと悲しくなるようなことはしたくないし、悲しいときは悲しむ。悲しいことを喜ぶ変態にはなりたくない。先生は漫画のためになんだってする。
先生は漫画を描くために人の心を捨てたんだ。だから先生はいい年して、ひとりもので家庭もなくて、友だちもいないんだ」

「そんなものは創作の邪魔だ」と、ぶっきらぼうに秋風。
う~ん、そうとも言えるかぁ?
でも、秋風先生って、誰よりも繊細だと思うなぁ。
余談ですが、この「ロボット」って、律の伏線?

④ユーコ(清野菜名)のデビューが決まった。
担当編集者への秋風先生のこだわり。ユーコのことを思いやる。
若い日の自分を思い出す。担当に恵まれなかった。
思っていることと違うことを要求してくる。
漫画家になれなかった夢をはたそうとしてか自分のイメージをおしつけてくる。
一言でテーマは何ですかと聞いてくるぼんくら。
定時に帰りたがる。
などなど。
秋風先生は言う。
「私は常に思っています。
才能の芽も水をやり良質な光をあてなければつぶれる。きちんと育てなければいけない。
仮にも、彼も(ボクテ)、彼女も(すずめ)、漫画家などという食えるか食えないか分からない不確定なもののために、自分の安定した人生を捨てたわけです。安泰の道を捨てる決心をした。その勇気ある決断を誠意をもって迎えなければいけない」

編集者がみんなこんな人たちだといいけど。
こういったシーンでいつも思い出すのが、我が友人のこと。
大学3年生のとき、ある漫画雑誌の大賞に選ばれた。デビューできると、友人も私も思っていたが、あるとき友人が言った。「編集者とけんかしてボツになった」と。
そこまで変えたら私の作品じゃないよね、の世界だったみたい。じゃあ、なんで「大賞」だったんだ?という疑問は残る。

⑤ボクテ(志尊淳)はすずめに嫉妬しないのかと尋ねる。
別の場面でずずめはユーコに言う。
先を越されたとは思うけど、友だちの成功を喜びたいと言うすずめ。そうしたら人生は2倍楽しくなる、と。むしろ自慢したい、と。
嫉妬しない人はいないだろう、と思う。
でも祝福することはきっと大事だ。友人の成功を否定するということは、自分の夢も否定していることになる、とは成功哲学の鉄則だし。
仲間の成功が自分の成功をも運んでくれる、という考えもあるようだ。
にしても、人生が2倍楽しくなる、とは、夢を追いかけている途中の人は、なかなか言えないし、思えない。

⑥実家から、帰って来て呉服屋を継げ、という手紙をもらっているボクテ。
別のエロ漫画編集者と接触するボクテ。が、作品は没になってばかり。
すずめの作品のひとつを譲ってくれと頼む。OKするすずめ。
ボクテがすずめから譲ってもらった作品がエロ漫画雑誌に載り、
ぱくられた!と大騒ぎになる秋風事務所。
作者名はボクテだし、タイトルもそのままだし。いくらOKもらってるとはいえ。もしかしたら、ボクテの罪悪感の現れだったのかな?無自覚な自己処罰。
事の次第が判明し、秋風先生は猛烈に怒る。
しかもエロまがいの作品にされた、と。
作品は生き物。
ボクテはすずめのアイデアをパクッたばかりか、作品の息の根をとめてしまった、と。

その直後、ボクテの作品がガーベラ大賞に決まる。
が、秋風は辞退させ、ボクテのデビューはなくなる。
ボクテを許してあげてくれと頼む裕子とすずめ。
一度やったやつはもう一度する、と断言する秋風。
プロ同士でのアイデアの貸し借りはご法度だ、と。
ボクテは才能があるのに、勝ちを急ぎましたね、と言う秋風先生。
もう少し待てばよかったのに、いち視聴者としてもホントに残念だ。
実家から帰って来いと言われていて焦ってしまった、その気持ちは理解できるが。
待つこともまた、勇気の決断なのだろう。
人はなぜかあと一歩のところで退くことが多い。

ボクテのお願いですずめはなんとか許されるが、ボクテは追い出されることに。
さらに、繰り上げで、すずめが大賞を受賞することになった。


このドラマ、東京編になってから、
秋風羽織と弟子たちによる夢論、創作論、芸術家論が興味深い。

それにしても、秋風先生のようなこんな良い先生、どこにいるのだろう。
先生も弟子に嫉妬するのが相場。
編集者もそうだが、師が弟子をつぶす、なんてことは様々な世界である。
サスペンス劇場でもよく見かける。

余談だが、
最近、萩尾望都の昔のインタビュー番組を観て、
さらに「思い出を切り抜くとき」という古いエッセー集を読んだ。
「半分、青い。」の編集者のくだり。
似たようなことを萩尾が言っていたし、書いてあった。
そういえば、律の苗字って、萩尾だね。