こんにちは。
よりみちねこです。

今日は、
「わたしを離さないで」(TBS金曜夜10時)第4話
についてのよりみち感想評。 
2016年冬ドラマがはじまったでもご紹介した。

特別な場所で育った特別な使命をもった存在たち、の物語。 

ストーリーは過去の思い出をなぞる形で、一話ごとに進んでいく。

4話では、いよいよ陽光学園を卒業して、コテージと呼ばれる住居へ。
別の学校出身者とともに「提供」がはじまるまでの数年を過ごす。

相変わらず美和(水川あさみ)の我儘に振り回される恭子(綾瀬はるか)
美和とカップルになってしまった友彦(三浦春馬)
恭子は友彦のことが好きだったので、悲しい。本当は友彦も恭子のことが好きなはず・・・。

恭子たちのコテージはだらしない雰囲気で、恭子にとっては居心地が悪い。
そんなとき、別のコテージへ行った真実(中井ノエミ)から手紙が届く。
救われた気持ちで会いに行く恭子。
そこは明るく前向き。それぞれの趣味などを通して生き甲斐を見出している。
怠惰な恭子たちのコテージとは大違い。羨ましい。
そして彼らは、自分たちの「人権」を取り戻そうと活動している。
まるで6~70年代の学生運動のよう。
「生存の自由を脅かされることなく、意志を持って生きていける権利」
ここへ来て一緒に闘わないか、と誘われる恭子だが、断る。

真実は言った。
「行動をを制限されているし、報道もされない」
「みんなが触れたくない存在だから、テレビや新聞にもコントロールがかかってる」
「当たり前だって、あきらめてるかもしれないけど、こんな役割を押しつけられているのは、絶対に間違っている」
「この活動がだめでも、どうせ殺されるんだから」
「だったら闘おうよ。戦わないと何も変わらないんだよ」

恭子は言う。
「でも私たちがいることで、助かる人もたくさんいるわけでしょう」
真実。
「あの天使だの使命だのって、あれ、洗脳だから。外の人たちだって、私たちのこと家畜だとしか思ってないから」
そして、恭子。
「でも、私は、少しでも長く生きたい」

現実の世界でも、報道されないと、自分の周り以外のことは分からない。
昨年も、デモの報道をなかなかしないという現象があった。
何事も、反対する人たちがいないのなら、いるということが分からないとき、
人は、支配者たちのいいなりになるしかないし、
このドラマで言うと、真実のように感付いて考えている人がいることすら分からない。
たいていの人は、知性も与えられずにコントロールされていくのだろう。
恭子はどっちなんだろう。
分かっているけど、どうにもならないであろうことを考える必要はないと思っているのか、
短いけど生存欲なのか、
友彦のことなのか。
いずれにせよ、闘わない理由の根底に横たわっているのは、
「でも私たちがいることで、助かる人もたくさんいるわけでしょう」
ではないか。
自分への意味づけをしなければ、やってられない、のではないか?
ギリギリの選択。自己肯定と正当化。

「楽しいこと」は、人それぞれ。
恭子も、色恋にだけそれを見出そうとする同居人たちを軽蔑していたが、
結局、寂しさには勝てなかった。
寂しい気持ちが、人を恐怖で狂わせる。
綾瀬はるかの、この脅威の演技が鬼気迫っていた。
それが人間だよね、とは、よりみちねこは思いたくない。
それは、支配者の思う壺だからだ。
考えないようにさせる。知性を奪う。恐怖で追いつめる。

なんだか空しい。
希望を見出せないなかでこそ男女の結びつきが生きている証しなのか。
いや、男女の結びつきこそが生命の営みなのか。
それとも、
自尊と希望を見出して、いつ得られるか分からないけれど、
将来の布石のためにも、
反旗を翻して声をあげていくことが「人間」なのか。
支配から逃れて自由を獲得しようとする意志は、人類の歴史だ。
それが幸福追求。

なにものにもなれない、可能性のない人生。
せめてもの数年の幸せ。それが男女の結びつきだと理解した恭子。
闘って勝ち取ろうとするよりも。

「つながり」を求める気持ちは恭子も真実も同じ。
その求める形が違ってしまった。
真実はおそらく、恭子は自分の仲間だと思っていたのだろう。
そして、美和の呪縛からも解放してあげたかった。
しかし、恭子の「つながり」は、真実の思うものとは違っていた、
のだろうな。

結局、友彦ではない、別の男性に身を委ねてしまった恭子。

友彦役の三浦春馬。
本当はサッカー選手になりたかった友彦。
いじめられっ子だった友彦。
そのおどおどとした弱々しく純粋な青年を好演。
瞳と表情が、友彦という人物になりきっている。

第4話。
普遍性のある考え深いエピソードだった

TBSの見逃し配信で無料視聴できるので、
ぜひ!
2月12日まで。

ドラマを楽しんで心を育てよう