こんにちは。
よりみちねこです。
前回の記事で、最終回を迎えた2015年秋期ドラマのよりみち選・感想評を書いた。
「おかしの家」(TBS オダギリジョー・勝地涼・八千草薫)
だけ残っていた。
特に、このドラマだけ特化してタイトルにしたわけではない。
そういう意味では、「偽装の夫婦」がそれだ。
読んでくれたら嬉しい。
たまたま「おかしの家」だけ最終話が遅かった。
深夜ドラマだけど、とても気に入っているという絶賛評に惹かれて、
よりみちねこも第3話から見始めた。
途中でこちらに感想評も書いている。
たしかに、決してガチャガチャしていない、落ち着いたドラマだ。
ところが、最終話で首をおおいに傾げた。
このドラマは、ほのぼのドラマではなく、シビアなドラマだったのか。
それも、人の心の奥深くを衝いてドキッとさせられる仕掛けのあるドラマ、
例えばアラビアンナイト的な、そういう心理と真理を表現しているのでもないような、
いや、しているのかもしれないけれど、
そこがなんとなく、よりみちねこのなかでは、グニャっとつぶれてしまったような、
そんな雰囲気なんだにゃ。
それほど期待していた、ということもあるのかもしれない。
主人公・太郎(オダギリ)の友人が交通事故で死んだあたりから、
なんだか、空しい感じが否めなかった。
その死も、映像演出的に、もしかして自殺?を匂わせているのに、
それについての言及は全くなかった。
最終話もそうだ。
最終話の冒頭。
太郎と結婚した礼子(尾野真千子)が、連れ子である息子に絵本を読んで聞かせる。
「太郎は我が家に走って帰った。家は影も形もなかった」
ねえ~。太郎は普通の幸せを忘れちゃったんだよね。
「浦島太郎ね。私たちの太郎はだいじょうぶだよ」
ばあちゃん(八千草)が、駄菓子屋「さくらや」を売る、という。
太郎は、ばあちゃんと一緒に暮らそうと住居を探していた。
狭く小さい。でも、これからお金を貯めてもっと広いところへ移るから、と。
が、ばあちゃんは養護老人ホームへ入ることを決めていた。
この家を売ったお金でお店を出せばいい、と言うばあちゃん。
そんなことできない、と太郎。
ばあちゃんは、静かに暮らしたい、あなたたちと一緒だと疲れちゃうから、と言う。
太郎はばあちゃんに裏切られたような気分になる。
そんなわけない、と礼子。
どうすることもできない。オレがもっとしっかりしていたら・・・。
ばあちゃんの言い訳は、太郎たちに迷惑をかけまいとする精一杯の優しさ、
ということは、もちろん視聴者にも分かる。十分に理解できる。伝わってくる。
太郎も悩んでいる。
そして、今までふらふらしてきた自分を責めている。
金が必要だから今はがんばるだけだと、友人で脚本家になったの三枝(勝地)に言う太郎。
太郎には料理の才能があった。
家でいつも作っていたからね。
スペイン料理のレストランで働いて、才能を認められ、
そしてあっという間に店を出す。
開店直後にはもう、けっこう大きな家に引っ越している。
古びた駄菓子屋から一転、かなりセレブな暮らし向きに見える。
テレビで2020年オリンピックと言っているから、長くても5年ほどの時間経過。
借金もしているだろうけど、こんなスピード出世的な?
ばあちゃんの言っていた「家を売ったお金」をやっぱり使ったのかな?と憶測。
ばあちゃんにもう半年以上も会っていない太郎。
女優を連れて太郎の店に来た三枝。
「忘れていくだよ、どんどん。大切だと思ってたものをさ。昔はあんなにはっきり見えたのに。オレ、何で脚本家やってんだろう・・・」
そう言って太郎を見つめた。
ばあちゃんの容体が悪いという電話。
礼子が行こうと言うと、今日はどうしても店に行かないと、と拒む太郎。
しかし、悩んだ末、礼子と二人でばあちゃんの元へ向かう。
ドラマを観終わって、なんだこれ?と正直思った。
太郎って、こんな人間だったんだ?
いや、お金や出世が太郎を変えてしまったのか?
それとも忘れただけ?
そして、よりみちねこは、この最終話をもう一度見直した。
そこで、冒頭に伏線があったことに気づいた。
覚えてる?
この記事の「最終話の冒頭」ってところに戻ってみて↑。
ね?
「今日も全然客来ないね」
ばあちゃんと二人で駄菓子屋の店先に座っているラストシーン。
「お茶でも飲む?」
人生って何なんだろう、と問い掛けているドラマであることは分かる。
幸せって何なんだろう。
でもね、こんな形で太郎を追い込むストーリーだったことに、
いささか、よりみちねこは釈然としないのだ。
華々しい成功、人から羨ましがられるような暮らし、
それを手に入れたとき、人の心は荒んでいく、
それは必至なのかな?
よりみちねこはそうは思いたくないけどね。
でも、どこかで頭をぶつけて、この場合おそらくは、ばあちゃんの死によって、
原点を思い出して、人の心を取り戻していくんだろう。
だって、息子(礼子の連れ子)は、ばあちゃんの容体が悪いのに、
「学校があるし、行きたくない」などと言う少年に育ってしまっている。
これはやっぱり親の背中を見ているからでしょう?
三枝は、
「最高にうまい」と太郎の料理を誉めたけど、
でもこれ多分、美味しくなかったんじゃないかな。
味が落ちている、つまり、心とか温もりとかがない。
三枝は、そういうのを敏感に感じる人だから。
太郎が三枝のドラマを観れていないと言うと、三枝はこうつぶやいた。
「太郎はオレが書いたものより、オレのことが好きだろう?こいつはさ(女優に向かって)、オレが書いたものの方が好きなんだよな?」
太郎の幼なじみでもある三枝。
もしかしたら、このドラマのなかで最後までピュアだったのは、三枝なのかもしれない。
三枝がいなかったら、太郎は、
享楽に流されてしまった浦島太郎に本気でなってしまったかもしれない。
ほんのり系のドラマだと思っていると裏切られる。
真理の差し出し方の後味がちょこっと悪い。
そう、ほんのり系社会派と思って観ていたからだ。
でも、そうやって裏切ることが、ドラマの醍醐味かもしれないし、
作り手サイドの思惑なんだろう。
現に、こうしてよりみちねこは思考をめぐらせている。
「太郎は我が家に走って帰った。家は影も形もなかった」
ねえ~。太郎は普通の幸せを忘れちゃったんだよね。
「浦島太郎ね。私たちの太郎はだいじょうぶだよ」
やっぱり忘れてただけ、なのかな?
素直に良質とは言い難いが、
おおいに考えさせられるドラマだったにゃ
ドラマを楽しもう
よりみちねこです。
前回の記事で、最終回を迎えた2015年秋期ドラマのよりみち選・感想評を書いた。
「おかしの家」(TBS オダギリジョー・勝地涼・八千草薫)
だけ残っていた。
特に、このドラマだけ特化してタイトルにしたわけではない。
そういう意味では、「偽装の夫婦」がそれだ。
読んでくれたら嬉しい。
たまたま「おかしの家」だけ最終話が遅かった。
深夜ドラマだけど、とても気に入っているという絶賛評に惹かれて、
よりみちねこも第3話から見始めた。
途中でこちらに感想評も書いている。
たしかに、決してガチャガチャしていない、落ち着いたドラマだ。
ところが、最終話で首をおおいに傾げた。
このドラマは、ほのぼのドラマではなく、シビアなドラマだったのか。
それも、人の心の奥深くを衝いてドキッとさせられる仕掛けのあるドラマ、
例えばアラビアンナイト的な、そういう心理と真理を表現しているのでもないような、
いや、しているのかもしれないけれど、
そこがなんとなく、よりみちねこのなかでは、グニャっとつぶれてしまったような、
そんな雰囲気なんだにゃ。
それほど期待していた、ということもあるのかもしれない。
主人公・太郎(オダギリ)の友人が交通事故で死んだあたりから、
なんだか、空しい感じが否めなかった。
その死も、映像演出的に、もしかして自殺?を匂わせているのに、
それについての言及は全くなかった。
最終話もそうだ。
最終話の冒頭。
太郎と結婚した礼子(尾野真千子)が、連れ子である息子に絵本を読んで聞かせる。
「太郎は我が家に走って帰った。家は影も形もなかった」
ねえ~。太郎は普通の幸せを忘れちゃったんだよね。
「浦島太郎ね。私たちの太郎はだいじょうぶだよ」
ばあちゃん(八千草)が、駄菓子屋「さくらや」を売る、という。
太郎は、ばあちゃんと一緒に暮らそうと住居を探していた。
狭く小さい。でも、これからお金を貯めてもっと広いところへ移るから、と。
が、ばあちゃんは養護老人ホームへ入ることを決めていた。
この家を売ったお金でお店を出せばいい、と言うばあちゃん。
そんなことできない、と太郎。
ばあちゃんは、静かに暮らしたい、あなたたちと一緒だと疲れちゃうから、と言う。
太郎はばあちゃんに裏切られたような気分になる。
そんなわけない、と礼子。
どうすることもできない。オレがもっとしっかりしていたら・・・。
ばあちゃんの言い訳は、太郎たちに迷惑をかけまいとする精一杯の優しさ、
ということは、もちろん視聴者にも分かる。十分に理解できる。伝わってくる。
太郎も悩んでいる。
そして、今までふらふらしてきた自分を責めている。
金が必要だから今はがんばるだけだと、友人で脚本家になったの三枝(勝地)に言う太郎。
太郎には料理の才能があった。
家でいつも作っていたからね。
スペイン料理のレストランで働いて、才能を認められ、
そしてあっという間に店を出す。
開店直後にはもう、けっこう大きな家に引っ越している。
古びた駄菓子屋から一転、かなりセレブな暮らし向きに見える。
テレビで2020年オリンピックと言っているから、長くても5年ほどの時間経過。
借金もしているだろうけど、こんなスピード出世的な?
ばあちゃんの言っていた「家を売ったお金」をやっぱり使ったのかな?と憶測。
ばあちゃんにもう半年以上も会っていない太郎。
女優を連れて太郎の店に来た三枝。
「忘れていくだよ、どんどん。大切だと思ってたものをさ。昔はあんなにはっきり見えたのに。オレ、何で脚本家やってんだろう・・・」
そう言って太郎を見つめた。
ばあちゃんの容体が悪いという電話。
礼子が行こうと言うと、今日はどうしても店に行かないと、と拒む太郎。
しかし、悩んだ末、礼子と二人でばあちゃんの元へ向かう。
ドラマを観終わって、なんだこれ?と正直思った。
太郎って、こんな人間だったんだ?
いや、お金や出世が太郎を変えてしまったのか?
それとも忘れただけ?
そして、よりみちねこは、この最終話をもう一度見直した。
そこで、冒頭に伏線があったことに気づいた。
覚えてる?
この記事の「最終話の冒頭」ってところに戻ってみて↑。
ね?
「今日も全然客来ないね」
ばあちゃんと二人で駄菓子屋の店先に座っているラストシーン。
「お茶でも飲む?」
人生って何なんだろう、と問い掛けているドラマであることは分かる。
幸せって何なんだろう。
でもね、こんな形で太郎を追い込むストーリーだったことに、
いささか、よりみちねこは釈然としないのだ。
華々しい成功、人から羨ましがられるような暮らし、
それを手に入れたとき、人の心は荒んでいく、
それは必至なのかな?
よりみちねこはそうは思いたくないけどね。
でも、どこかで頭をぶつけて、この場合おそらくは、ばあちゃんの死によって、
原点を思い出して、人の心を取り戻していくんだろう。
だって、息子(礼子の連れ子)は、ばあちゃんの容体が悪いのに、
「学校があるし、行きたくない」などと言う少年に育ってしまっている。
これはやっぱり親の背中を見ているからでしょう?
三枝は、
「最高にうまい」と太郎の料理を誉めたけど、
でもこれ多分、美味しくなかったんじゃないかな。
味が落ちている、つまり、心とか温もりとかがない。
三枝は、そういうのを敏感に感じる人だから。
太郎が三枝のドラマを観れていないと言うと、三枝はこうつぶやいた。
「太郎はオレが書いたものより、オレのことが好きだろう?こいつはさ(女優に向かって)、オレが書いたものの方が好きなんだよな?」
太郎の幼なじみでもある三枝。
もしかしたら、このドラマのなかで最後までピュアだったのは、三枝なのかもしれない。
三枝がいなかったら、太郎は、
享楽に流されてしまった浦島太郎に本気でなってしまったかもしれない。
ほんのり系のドラマだと思っていると裏切られる。
真理の差し出し方の後味がちょこっと悪い。
そう、ほんのり系社会派と思って観ていたからだ。
でも、そうやって裏切ることが、ドラマの醍醐味かもしれないし、
作り手サイドの思惑なんだろう。
現に、こうしてよりみちねこは思考をめぐらせている。
「太郎は我が家に走って帰った。家は影も形もなかった」
ねえ~。太郎は普通の幸せを忘れちゃったんだよね。
「浦島太郎ね。私たちの太郎はだいじょうぶだよ」
やっぱり忘れてただけ、なのかな?
素直に良質とは言い難いが、
おおいに考えさせられるドラマだったにゃ
ドラマを楽しもう
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